においが体を制御する
-忌避剤開発から感覚創薬※の世界へ-
「理想の追求」第8回助成 助成期間:2017年4月~2020年3月
採択テーマ:先天的恐怖活用技術の開発によるげっ歯類からの食害防止
助成期間中のご研究について
当時私が研究していたのは「忌避剤」の開発でした。ネズミは古来より人類の食糧にとっての脅威で、今でも全世界で農作物に甚大な被害を与えています。これを防止できれば「食」の問題の解決に貢献できるのではないかと考えました。
これまでの研究で、天然物よりはるかに強く野生動物に対し「恐怖」を誘導できるにおい分子を作り出すことに成功し、それを使った忌避剤の開発を進めることができています。でも、そのにおい分子がどうやって脳に伝達し、どのように恐怖行動が制御されるのかは全く分かっていませんでした。この謎を何とか解明したくてキヤノン財団の助成に応募しました。その結果、TRPA1という受容体が恐怖行動の制御に非常に重要な役割を果たしていることがようやく解明でき、これを契機に脳にどのような情報が伝達されているのか、解明がさらに進みました。その過程において、その後の研究に大きな影響を与える発見があったんです。
キヤノン財団の助成期間中に大きな発見をされたということですか
その通りです。我々が作り出したチアゾリン類恐怖臭を嗅いだマウスは、フリージングという全く動かなくなる状態になります。この行動は単に天敵に見つからないように隠れるということだけではなく、長時間経つと室温くらいまで体温が低下し、においを無くすとまた正常に戻るんです。もしかしたら、脳梗塞などの際に脳の損傷を防止するために使われる低体温療法のように、身を守るための潜在的な能力を恐怖臭が導いているのではないかと考えました。 それを確認するための様々な実験の中で、驚くべき発見があったんです。恐怖臭を嗅がせたマウスを4%の超低酸素中におくと、通常であれば10分程度で死亡してしまうマウスが、なんと1~2時間、長いものでは6時間も生きられることが分かったのです。この衝撃的な実験結果をきっかけに、人や動物が長い進化の過程で獲得してきた潜在的な生命保護作用を恐怖臭によって誘導することで、医療や人工冬眠などに応用できるのではないかという思いに至りました。この思いが、その後の研究の幅を大きく広げるきっかけになりました。
その後どのように研究が発展したのですか
「忌避剤」の開発は企業と連携して順調に進めている一方で、「感覚創薬」※というこれまでにない全く新しい研究を発展させています。感覚創薬の考え方はこれまでの薬の概念と全く異なります。問題が起こっているところに直接作用するのではなく、においなどの感覚により脳に刺激を与えることで、潜在的に持つ生命保護能力を誘導し、体を治すものです。「感覚刺激によって治す」という全く新しい概念で、これが実現できれば低侵襲な治療が実現できると期待しています。ちょっと補足しますが、恐怖臭というと治療の最中に怖い思いをするのでは?と思われるかもしれませんが、意識とは分離して生理作用を制御できることが解明されています。だから怖い思いをしなくて済むので安心してください(笑)。
- ※
- 感覚創薬とは、生物が進化の過程で獲得した潜在的な生命保護作用を人為的に誘導し治療に応用する新たな技術概念
研究者になろうと思ったのは?
とにかく分かっていないことを解明したり、不思議な現象を理解したいという思いは小さい時からありましたね。高校生のころには一番身近にある面白そうな生物という分野、中でも脳に興味を持っていました。我々の行動を本能的に決める脳の働きにはまだわからないことが多く、何か新しいことが出来ると考えました。においに興味を持ったのは東京大学の坂野先生の研究室に入り、においを認識する嗅神経がどうやって神経回路を形成するのかという研究に出会った時でした。脳の複雑な神経ネットワークの形成方法が理解できれば脳がどうやって機能するのか分かると思い、神経回路の形成の研究を始めました。その後大学院を卒業後に発表した「においに対する行動を鼻腔でどうやって制御するのか」という論文が、ありがたいことに世の中ですごく引用されました。においと行動を関連付けることが重要であるということを世に投げかけるパイオニアとなれたことを実感でき、そこからにおいの研究にのめりこみましたね。
小早川先生がご研究において心がけていることは
私の研究は、予想外の発見から始まりそこから発展していくのが特徴ですね。仮説を立て検証するというよりも、新たな発見から何が導き出せるか追及していく研究スタイルでずっとやってきました。高校の理科の先生からの、物事の表面や目に見えるものだけでなく、その裏にあるものも徹底的に考えろ、という教えが今も活きている気がしますね。例えば、恐怖臭によるフリージングもよく考えるとすごく変な行動なんですよ。動き回る本能を持ったものが全く動かなくなるわけですから。他にも何かあるんじゃないかと徹底的に追及したことが良かったですね。新たな発見をした場合、その裏に何があるのかしつこく見るということが重要で常に心がけています。うまくいっていないように見えるものでもその裏に何か理由がある可能性が高いし、別の意味でうまくいっている可能性もある。そういうところを見逃さないことが大切だと思っています。新しい発想や視点は大事なので、私のように予想外の結果を基に別の展開に広げていくような研究者も増えてほしいと感じています。
今後の夢は?
まずはにおいを使った範囲で、脳が恐怖というものをどうやって生み出すのか、それに基づいて感覚創薬という新たな概念での薬を創り出してみたいというのが一番の夢です。
あとは人工冬眠ですね。冬眠の状態というのは、体の活動を低下させながら生きているという点で、生きていく上で非常に必要な要素を抽出できる可能性があると思っています。また、人工冬眠をどう誘導できるのか、といった分野も興味があります。まだまだ、やりたいことは広がっていますね。
先生にとってキヤノン財団とは
忌避剤の研究の中で新たな発見があり、それをきっかけに研究内容を広げるべきか悩んでいた際に、選考委員の先生から「自分の思い通りに研究を広げてぜひチャレンジしてほしい!」と、背中を押していただきました。これが私にとっては大変重要なターニングポイントであり、その後の原動力になっています。もちろん、大きな助成金をいただいたこともありがたかったのですが、選考委員の先生方のアドバイスには本当に感謝しています。
今でもキヤノン財団のリユニオンなど欠かさず参加させていただいていますが、それにはキヤノン財団への恩返しの気持ちも大きいですね。