都市型ブルーカーボンが創る脱炭素社会の勝機
第3回「理想の追求」 (2011年採択) 2012/4/1~2015/3/31
採択テーマ:都市型ブルーカーボン:新たな沿岸海域炭素循環像の構築
キヤノン財団採択時の研究内容をお聞かせください
キヤノン財団の助成をいただいた2009年当時は、まさに「ブルーカーボン」という概念が世界で産声を上げたばかりの黎明期でした。私は「この言葉は必ず社会に浸透する」と直感し、沿岸域のCO2吸収メカニズムの解明を掲げて応募しました。
【常識を覆す:都市の海は「吸収源」であるという証明】

この助成期間における最大の功績は、当時の科学界における「定説」を科学的根拠によって真っ向から否定し、都市の海が持つ未知の価値を掘り起こしたことです。当時の科学界では、東京湾のような高度に都市化された海域は、陸からの有機物流入と分解が激しいため、CO2を排出する「ソース(源)」であると信じられていました。教科書でも「干潟は有機物を分解し、浄化する場所」とされており、多くの研究者は人間活動の影響が強い海域をあえて研究対象から外していたのです。しかし、私は「東京湾は実は巨大な吸収源ではないか」という仮説を立てました。限られた予算の中で、私は三つの画期的な手法を導入し、この定説に挑みました。
第一に、「渦相関法」を主体とする新たな計測技術の開発です。これにより、年間を通じて海草場が大気中のCO2を吸収することを世界で初めて実証しました。第二に、安定同位体比と元素比の分析により、海域に貯留された炭素の起源を特定。海草由来の炭素はプランクトン由来に比べて極めて貯留率が高いことを定量的に明らかにしました。
そして最後に集大成として、これらの知見を統合した、炭素貯留・生物生産水質改善への影響を予測できる「ブルーカーボン数理動態モデル」を構築しました。このモデルを用いた試算により、下水処理場から供給される栄養分が海洋植物の光合成を促進し、都市の海が効率的なCO2吸収源として機能するというメカニズムを解明しました。この「都市型ブルーカーボン」の発見は、まさに世界の教科書を塗り替えるパラダイムシフトの瞬間でした。
キヤノン財団助成後の研究の進展と社会へのインパクトについて
キヤノン財団にご支援いただいた研究の成果である基礎データと数理モデルこそが、その後の社会実装を支える強固な土台となりました。転換点は2020年、政府による「2050年カーボンニュートラル」宣言でした。この時、私の頭にあったのは「研究を論文の中だけで終わらせてはいけない」という強い決意です。そこで同年に「ジャパンブルーエコノミー技術研究組合(JBE)」を設立しました。
【科学を社会の仕組みへ:環境価値の正当な評価】

風蓮湖の海草藻場に設置された渦相関システムによるCO2吸収量の測定の様子
JBEでの取り組みは、まず「海の豊かさを守る」という環境への好影響を最大化することから始まりました。その手段として構築したのが、日本独自の「Jブルークレジット」制度です。私たちの優先順位は、常に対象となる海洋生態系の「質」にあります。単に炭素を吸わせるだけでなく、魚を増やし、水質を改善する「ネイチャーポジティブ(自然再興)」という環境へのインパクトを最も重視しています。科学的に厳密な評価手法を用いることで、不確実性を低減し、海洋保全がもたらす多様な恩恵を「見える化」しました。こうした環境価値の証明とともに、「資金」循環の仕組み構築にも取り組みました。これまでの環境保全は漁業者や地元環境団体の「持ち出し」に頼っていましたが、証明された環境価値がクレジットとして評価され、クレジット売却による活動資金の調達ができるようになって、保全活動そのものが持続可能なモデルへと変わりました。事実、炭素吸収量に「生物多様性への貢献」というストーリーを加え、さらに資金循環の仕組みを導入したプロジェクトは、市場で極めて高く評価されています。
この成功の源流を辿れば、キヤノン財団時代にいただいた「ケーススタディに留まらず、将来への示唆(オピニオン)を発信せよ」という厳しい教えに行き着きます。あの時、科学者として社会にどう向き合うかを問い直された経験が、現在の「信頼されるクレジット制度」の構築に繋がっているのです。
今の研究にたどり着いた経緯について

干潟生態系を再現した実験施設での観察の様子
もともと研究者になろうという強い意志があったわけではありません。ただ、昔から釣りが大好きで、海という場所には特別な親しみを感じていました。
大学は農学部に進みましたが、大学院で「そろそろ真面目に研究でもしてみようか」と思った時、やはり自分の興味がある海、しかも趣味の釣りと地続きにある沿岸域を対象に選びました。就職についても、「研究ができて、給料がもらえるなら最高だな」というくらいの動機で、当時の運輸省(現・国土交通省)の研究所に入りました。入所してからの自分を突き動かしてきたのは、「教科書を書き換えたい」という反骨心に近い好奇心です。先ほどお話しした「都市の海は排出源だ」という定説に対し、フィールドで泥臭く観測を続け、真逆の「吸収源だ」という結果を突きつける。常識を疑い、誰も見ていない場所に光を当てることが、自分にとって何よりの面白さでした。
当時の趣味であった釣りの現場感覚と、工学的な計測技術、そして生態学的な視点がうまく融合したことが、いまの「ブルーカーボン」という研究テーマに繋がったのだと感じています。
今後の展望や夢をお聞かせください

2050年のカーボンニュートラル達成は、自分の子供たちの世代に負債を残さないための義務だと思っています。そのためには、脱炭素を「苦しい我慢」ではなく、「楽しく、ワクワクするもの」に変えていかなければなりません。
私のいまの夢は、ブルーカーボンをゲームとリアルの融合によって加速させることです。例えば、マインクラフトのようなメタバースの世界で、子供たちが海に藻場をレイアウトするゲームを楽しんでいるとします。その中で最適解を出した配置データが、リアルの世界の水中ロボットやAIと連動し、実際に本物の海に海藻を植えていく。ゲーマーたちが世界ランキングを競うことが、そのまま地球環境を再生する活動に直結する。そんなフィジカルAIとエンターテインメントが高度に融合した仕組みを作りたいと考えています。
関連産業としてAI・ロボット・土木技術など、あらゆる分野の知恵を海に集めたいですね。海の研究を「一部の専門家のもの」から「誰もが参加できる楽しいプロジェクト」へ拡張していくことが私の大きなビジョンです。
次世代に伝えたいことは?
若い世代の皆さんに伝えたいのは、「シニアの世代が言うことは、あまり真に受けなくていい」ということです(笑)。
私自身、もし上の人の言うことに従い、「都市の海は排出源だから研究しても無駄だ」という当時の常識に甘んじていたら、ブルーカーボンの今の姿はありませんでした。教科書を塗り替えるような発見は、常に「真逆を攻める」勇気や度胸から生まれると考えています。自分が「これだ」と信じるもの、面白いと感じるものがあれば、周囲の雑音を気にせず突き進んでほしいと思います。

Profile
桑江 朝比呂(くわえ ともひろ)
海上・港湾・航空技術研究所 港湾空港技術研究所
特別研究主幹/博士(農学)
https://www.pari.go.jp/unit/ekanky/member/kuwae/






